過去の取材記事

Foodionに神楽坂 石かわ 店主 石川のインタビュー記事が掲載されました。

食を通して、喜びの輪を広げる。 起点は「人」であり、すべてはそこから始まる

神楽坂 石かわ 石川 秀樹

 

 

■親方との関係をすごく温かく感じた。始まりは、そこから

ミシュランの三つ星を獲得する以前から、確かな技術と独創性を併せ持つ日本料理の職人として評価されてきた石川氏。風格がありながら気さくで、人懐こい笑顔が印象的な人物だ。神楽坂に3店舗を持つ株式会社一龍三虎堂の経営者でもあり、約30人のスタッフから「おやっさん」と呼ばれて慕われている。いまや日本料理の世界で確固たる地位を築いた石川氏だが、若い頃は今では想像のできない、人と話すのが苦手なフリーターの青年だったという。石川氏の若いスタッフへのまなざしの暖かさは、そうした原体験からくるのかもしれない。

高校卒業後はどんなお仕事をされていたんですか?

石川氏:
新潟県燕市の出身で、取りあえず地元の洋食器問屋に就職したんですけどね。20歳の時に彼女に振られて、何もかもがイヤになり、鞄ひとつで東京の友人の部屋に転がり込んだんです。上京の翌日に原宿に行って、目についたカフェバーに飛び込んでアルバイトとして採用してもらって、フリーター期間が2年くらい。三畳一間、風呂なし、トイレ共同の貧乏生活でね。夜は小さなホテルの掃除をやったりもしていましたよ。

なんと、フリーターをされていたんですね!その頃、料理にご興味は?

石川氏:
全く(笑)。そもそも美味しいものを食べたことがなかったんです。当時はまだ「気軽にイタリアン」というような時代ではなく、貧乏な自分はレストランなんて行ったことがなかったですし。ただ、23歳くらいの時に、さすがにずっとフリーターをやるわけにはいかないから手に職をつけなければと考えて、料理人になることを思いついたんです。私は人と話すのがすごく苦手でしたから、会社の営業職とかは無理だけど、料理人なら料理さえ作れば何とかなるだろうと。イージーな感じですよ。

最初に修業されたのは、原宿にあった日本料理店「さくら」ですね。

石川氏:
「さくら」はバーを併設した、そのころとしては珍しい日本料理店で、芸能人の行く店として雑誌によく取り上げられていたんです。ミーハー心から門を叩いたら、「何しに来たの?」と社長に言われました。当時の私は東京にかぶれて流行りの服に髪もパーマをかけていて、本気で働きそうにはとても見えなかったんでしょうね。

そこで、頭を丸めて、もう一度お願いしに行ったら、親方と面接させてもらえて、働けることになりました。その親方のことは今も「おやっさん」と慕っています。

「おやっさん」は、どんな方だったのですか?

石川氏:
見た目は強面でね。パンチパーマでバリバリ(笑)。厨房では厳しいけれど、懐の深い人でね。家族の食卓に呼んでくれたりして、すごく温かいなと。地方から上京して友人も少なかったので、こういう世界もあるんだと親方の人間味にひかれました。この人とずっと一緒にいたいなと感じて、そこからですよ。料理人としてやっていきたいと思ったのは。ただ、当時は料理を極めようという強い気持ちではなかったですね。修業時代は10店舗以上移りましたが、自分の意思なんてないですよ(笑)。今でも名残りは残っていますが、当時の日本料理の修業システムは徒弟制度が色濃くて。自分が師事する親方から「次はあの店で働きなさい」と言われたら、素直に包丁をまとめて移るのが普通でした。最近のように「妻と相談してから…」なんて許されない世界です。数ヶ月で次の店へということもありました。

■名店「神谷」の神谷昌孝氏のもとで開眼。娯楽をすべて断ち切り、24時間料理だけに集中

情熱を持って料理に打ち込むようになったのは、「さくら」時代の親方の口利きで乃木坂「神谷」に入ってから。店主の神谷氏は24歳にして料亭「赤坂 きくみ」の料理長に就任し、「きくみ」の老舗としての地位を確立したのち、41歳で独立。石川氏が修業に入った当時の神谷氏の店は、最先端の日本料理店として世間の注目を集めていた。

神谷氏の店とほかの店の違いを感じました?

石川氏:
とにかく店に格がありました。料理はもちろん、器も見たことのない「本物」ばかりを使っていた。店のしつらいも洗練されていて、お客さんの層もそれまでのお店とは違う。

こうした世界に身を置くことで、自然と自分も器や日本文化への関心も高まり、休みの日に茶道を習ったり、骨董屋さんやギャラリーで作家ものの器を見たりといったこともするようになりました。

親方としての神谷さんはどんな方でしたか?

石川氏:
普段は温和なんですよ。それに話がとにかく面白い。ところが、仕事のことになったら、厳しいなんてものではありませんでした。私は煮方を担当していたので、一番出汁の味を神谷さんにチェックしていただくのですが、「なんだ、これは」とギロリとにらまれ、作り直し。大慌てで開店時間ギリギリまで出汁を引き直すというようなこともザラ。料理に対して妥協がなく、甘えは全く許されない。それでいて、スピードと美しさもある。職場も本当にきれいなんです。

「これは24時間すべてを料理に費やさなければ、神谷さんのもとではとても生きていけないぞ」と思いましてね。アパートにあったテレビや漫画などすべての娯楽用品を実家に送り返しました。プライベートも料理一色。元フリーターだった自分が、覚悟を決めたんです。

辞めようとは思いませんでしたか?

石川氏:
その時点では、辞めるなんて選択肢はないですよ。この世界に入ったばかりのころは何度も「辞めよう」と考えましたけどね。だんだん親方や兄弟子たちに育ててもらって仕事を続けるうちに、周りに迷惑をかけて辞めるような不義理だけはしたくないと思うようになりました。それに、神谷さんに自分の知らない世界を見せていただいたことが大きかった。

日本料理の世界のトップのひとりとされている存在がすぐそばにいるわけですから、ある種のリアリティがあるんですよ。つまり、この人を超えることができたら、自分もトップになれるのかなと。妄想かもしれないけど、そこに突き動かされた。

明確な目標ができて、料理への情熱に火がついたんですね。

石川氏:
生きるか死ぬかというくらいの気持ちで料理に向かっていました。あのころは必死でしたが、振り返ると、24時間料理だけに向き合うというのは若いうちにしかできないこと。幸せな日々だったなと思います。

■「自分の味」の構築。カウンターでの客との対面接客が契機に。師匠から教わったことを全て封印した時代

「神谷」の次は、埼玉・志木のビジネルホテルへ。ホテルに新たに食事処が作られることになり、料理長として呼ばれたのだ。ホテルは駅裏の人通りの少ない場所にあり、店は20席ほどの規模だった。

初めて料理長を経験されたんですね。いかがでしたか?

石川氏:
もともとは朝食だけを出していたこぢんまりしたスペースを使って昼と夜も営業する食事処を作りたいということで呼ばれましてね。最初は自分なら、苦もなくできると思っていたんですよ。「神谷」の煮方というのは一般的な店の料理長よりもキャリアとして価値があると周囲に言われて鼻が高くなっていましたから。ところが、いざ着任してみると、店の運営から料理のメニューまですべてに自分で決断を下さなければいけない。それまでとは勝手が違いました。

お店は繁盛しましたか?

石川氏:
もう、これが、イヤになるほど来てもらえないんですよ。600円のランチにすらお客さんに来てもらえないんです。駅前でビラを配っても、受け取ってくれる人は少なくてね。キャンディーをビラにつけたらどうだろうなんて、工夫をしたりしました。この時期は、経営書なんかもたくさん読みました。

そんな調子でしたが、オーナーに相談して少し原価をかけさせてもらって「都内で食べるよりも、リーズナブルにおいしいものが食べられますよ」と打ち出すうちに徐々に結果が出ましてね。そこそこ評判の店になったんです。

素晴らしいですね。ホテルにはどのくらいの期間いらしたんですか?

石川氏:
2年くらいですかね。お世話になった親方が大舞台の店に行くということで急遽助っ人に呼ばれ、その後35歳の時に八重洲の割烹「岡ざき」の料理長になりました。40席ほどの店でした。ここも最初は暇でしたが、「このくらいの規模の店を繁盛させられなかったら、この先何をやってもうまくいかない」と思って、目の前のことをコツコツやっていました。

料理のことももちろんですが、休みの日に出勤して汚れたカウンターをカンナで削ったり…。徐々に社長から信頼されて、料理以外もいろいろ任せてもらえたのでありがたかったですね。カウンターに出たのも初めてだったので、勉強になりました。

カウンターはお客さんの生の声が聞けますよね。

石川氏:
そうなんです。いろいろと教えていただいたり、反応を見て、メニューを作り直したり、新しく作ったりして。料理長として店の味のすべてを決断することへの責任感も大きかったですね。埼玉のホテル時代もそうでしたが、自分の料理って何だろうというのを模索した時期でした。

それまでは師匠に教わったことを忠実にやっていて、調味料の配合にしても師匠とほとんど同じだったんですね。でも、自分が本当においしいと思う味は何かを追求するようになると、なぜこの配合なんだろうという疑問が自然に出てきて。

そのために、過去の技を封印した。師匠に習ったことを一度封じて、醤油や塩の銘柄を吟味することから自分の味を構築していきました。

「石かわ」の味の礎を築かれた時期だったんですね。お客さんの反応はどうでしたか?

石川氏:
調味料を工夫したり、素材の構成もほかではないことをどんどんやってみると、よきにせよ悪しきにせよ何らかの反応がありました。それを見てまた次を作るということを繰り返すうちに「おいしかった」と満足して帰ってくださるお客さんが増えましてね。入った時は月商200万円くらいでしたが、最終的には600万円近くになりました。

■神楽坂で独立。お客さんが入らず、不安に震えた独立当初。スタッフや業者さんの存在がありがたかった

「岡ざき」から一緒に働いていた小泉功二氏(現・「虎白」料理長)とともに「石かわ」をオープンしたのは38歳の時。「岡ざき」時代から独立は意識しており、店の構想について小泉氏と語り合っては夢を膨らませていたという。

独立に踏み切ったきっかけは?

石川氏:
料理長という立場になってずっと自分の料理とは、自分の味とはと苦しいくらい考えてきて、ある程度納得できるものを見つけられたというのが大きかったですね。ちょうどそのころに「岡ざき」の経営者が変わるという話が出て、節目かなと考えて独立させてもらったんです。

神楽坂に店を出したのは何かゆかりが?

石川氏:
器が好きで、休日にたまに行くギャラリーがあったのですが、そこで知り合って意気投合したの年配の男性が、引退した設計士さんだった。その方が「俺が設計してやるよ」と物件まで探してくれたんです。

私が伝えた条件は「15坪くらいで、土地の名前に力のある場所」ということ。そこで見つけてくれたのが、現在「虎白」を営業している旧「石かわ」の物件で。「神楽坂」というのは、名前にも力がありました。

開業にあたって不安はありましたか?

石川氏:
不安よりも希望の方が大きかったです。ほかにはないおいしい料理と、本物の器。すっきりしていながら温かみのある空間をとイメージをして、「こういう店なら、絶対にお客さんに喜ばれる。流行らないはずがない」と自信を持っていました。いけるイメージしかない(笑)。

……ところが、来ないんですよ、お客さんが。夕方から深夜まで店を開けていて、お客さんがいる時間はほんのわずか。それでもひとり、ふたりは来てくれていたのに、開業1カ月後くらいに3日間誰もこなかったんです。

なんと、3日間ボウズですか!精神的につらかったでしょうね。

石川氏:
もう、しびれますよ(笑)。今でこそ笑って話せますが、当時は震えが来て仕事が手につかない状態でした。銀行の融資を受けるために両親の家を担保に入れ、身内からもお金を借り、合わせて2000万円以上もの借金を抱えているのに、3日間もお客さんゼロ。

「俺なんかが思い上がって店を開いてしまったためにみんなに迷惑をかけた」と情けなくて、情けなくて。「もう死のう、俺なんて死ぬべきだ」と思いました。でも、その前にやれるだけのことはやろうと翌日からお昼の営業を始めたんです。

当時の厨房スタッフは石川さんと小泉さんのおふたり。仕込みのことを考えると、夜も昼もクオリティを維持するのは簡単ではないですよね。

石川氏:
はい。中途半端なものを出して店のイメージを落としたくないという思いはありました。だから、昼は蕎麦と天ぷらのセットのみを出すことに。かえしを作って、きちんとだしも取って手打ち蕎麦をやるなら、お客さんも喜んでくれるだろうと考えて。

すると、昼はお客さんがすぐに来てくれるようになったんですよ。そこから、1日2、3万円の現金が入るようになり、命を救われたかもしれないと思いました。夜の集客には思うようにつながらなかったのですが、来てくださった方を大切にしているうちにポツポツと通ってくださる方が出てきて。そのうちのおひとりがライターさんで、全国誌に取り上げてくださったんです。それをきっかけに少しずつ忙しくなって、昼の営業はやめさせてもらったんです。

軌道に乗ってきたのは、オープンからどのくらいでしたか?

石川氏:
1年くらいでしょうか。振り返ればすごく短い時間ですが、当時は苦しくて長かったです。体力的にも厳しかったですし、小泉君をはじめスタッフがそばにいてくれなかったら、とても乗り越えられなかったでしょうね。

お客さんや業者さんにもお礼を言い尽くせないくらい支えられました。この当時の経験から、「お客さんにはもちろん、業者さんやスタッフにも喜んでもらえる店を作りたい」という経営理念を持つようになったんです。

皆でそろって食べるまかない飯。

■スタッフへの思い。嫌な思いをしようと思って日本料理の世界に入ってくる人はひとりもいない

2009年に初めてミシュランの三ツ星を獲得。思わず、泣いた。「星をいただいたからといって、仕事への姿勢に変わりはありません。うれしかったのは、何よりもお客さんやスタッフが喜んでくれたこと」と石川氏は振り返る。

2015年には姉妹店の「虎白」も三ツ星に選ばれ、「蓮」も二ツ星に。「虎白」は小泉さんが、「蓮」も石川さんのもとで修業を積まれた三科さんが料理長を務めていらっしゃいますね。

石川氏:
ありがたいですね。スタッフが育ち、彼らの活躍の場をと「虎白」、「蓮」を出店しました。「石かわ」は私を含め3人で始めましたが、現在、スタッフ数はその10倍近く。しかも、最近は長くいてくれる人が多いんです。

3店合同の誕生日会や海外への社員旅行などスタッフ間の交流も活発のようですね。

石川氏:
誕生日会は祝われる側が「みんなに何かお返しをしたい」ということでいつからか芸を披露する慣わしになったのですが、みんな気合いが入り過ぎてしまって(笑)。仕事に支障が出てはいけないので、毎月開催だったのを隔月にしました。

行事も盛り上がるのですが、毎日の夕礼もうちの特徴かもしれません。業務の連絡や報告をするだけでなく、ちょっとした読書会をやるんです。

日々の夕礼は欠かさない。業務連絡だけでなく、読書会の時間があるのが特徴的だ。

読書会とは、珍しいですね。

石川氏:
本を読むのは大事。良書を読む、というのは料理に限らず、人としての心を整えるための、大切な教育の一つだと考えています。今は読書会をしていますが、以前は自分の夢や趣味などテーマを決めて話したり…。スタイルは変化していますが、自分のことをみんなの前で話すということをここ10年くらいやってきました。

日々忙しくしていると、ともすれば調理場とホールの関係はコミュニケーションが不足してお互い自分中心に動いてしまう。そういうことを絶対に避けたくて、あれやこれや考え、2年目くらいから始めたんです。お互いが、相手を作業をするロボットではなく、心を持っている存在なんだ、ということを意識できるように。

2年目ですか。かなり早くからやられているんですね。当時、人材育成に課題をお感じになっていたんでしょうか。

石川氏:
その頃、若いスタッフが半年おきくらいにコロコロ変わってしまう時期があって。この世界も向き不向きがありますし、各々に事情もありますから、辞めた子を悪くは思いません。

ただひたすら悲しくて、そのたびに私は大泣きした。スタッフが辞めるといつも。

だって、彼らの夢を潰したのは私なんだから。誰だって嫌な思いをしたくてこの世界に入ってくる人はいないはず。どんな人も、夢や希望を持って入ってきてくれるのに、それを潰してしまった、と。

でも、泣いてばかりいるわけにはいかない。そこで、スタッフに喜んでうちにいてもらえるようにいろいろなことをやるようになったんです。

確かに、読書会や誕生日会だけでなく、海外研修に行ったり、社員寮を用意したり、社内報の発行もされていますよね。石川さんご自身が経験されてきた徒弟制度の世界とはずいぶん違うように感じます。

石川氏:
日本料理の徒弟制度には理不尽な面もありましたが、良い面もありました。親方が家族のように弟子の生活や職の面倒を見てくれましたし、親方や兄弟子たちとの交流から対人関係の機微も学ぶことができた。理不尽な面自体も、今では理不尽こそが人をたくましく育てると思っています。

私は、そのいいところは残しつつ、さらにいいシステムをつくりたい。料理もお店づくりも、今までにないことをやりたい。それこそが仕事の意義だと思っているんです。

口はばったいのですが、うちの店にお客さんがなぜ来てくださるのかというと、料理にせよ、器づかいにせよ、奇抜ではないけれど、どこか今までにないものだからなんです。今までありそうで、なかったもの。そういうものをつくっていきたいんです。それを継続的にするためには、スタッフや、業者さんが喜んで働ける環境をつくらないと。


定期的に発刊する社内報には、社員だけでなく、関連業者の紹介なども。社員やその家族などに配布している。

■大事なことはどの仕事も同じ。きちんと自分を整えて、きちんと相手に喜んでもらう

「石かわ」の開業から13年。飲食店を10年続けることは簡単なことではない。経営者として心がけてきたことを問うと、石川氏は「喜びの輪を広げていくこと。スタッフが楽しく働けて、それによってお客さんが喜び、業者さんも喜んでくれる。焦らず、じっくりと、健康な循環を作っていきたい。利益優先で不健康なことはしたくないんですよ」と真剣なまなざしになった。

飲食業は競争が激しく、ともすれば利益に目が向きがちですよね。

石川氏:
利益優先にすると、結局、利益を生まない。私の好きな経営者がよくおっしゃっていて、共感する言葉があります。利益は、「うんこ」だと。

「うんこ」って生きていく上でなくてはならない要素ではあるけど、それを目的にしてしまうとおかしな人生になりますよね?いいものを作り、喜ばれる活動をして健康な会社になれば、自然と適切な利益が「排泄」される。創業以来うちには数字の目標は一度もないんです。
開業後数カ月の苦しかった時期、お客さんが来なくても食材だけはいいものを仕入れ続けました。いらっしゃるお客さんが1日におひとりでも、そのおひとりに喜んでもらうにはどうすればいいかを小泉君と一緒に考え抜きました。

「石かわ」が今あるのはたくさんの方に支えられてのことですが、この12年間利益よりも喜びを大切にしたからでもあると思うんです。だから、スタッフの教育でも大事にしているのは、きちんと自分を整えて、きちんと相手に喜んでもらうことの大事さを伝えること。料理人に限らず、どんな仕事でも大事なのはそこだとおもうんですよ。私自身も体験学習してようやくわかってきたのですが…。

体験学習ですか。

石川氏:
もうね、50歳を超えた今も日々の体験で学習しています。

独立した時も自分が何のために店をやるのかというと、世の中のため、世の中に貢献したいという思いはあったんですよ。だけど、現実はそうはうまくいきません。貢献といいながら、やっぱり自分の欲の方が強く出てしまったりね。

それを体験学習で少しずつそぎ落としてきたら、不思議なことに、近年は食に関してのさまざまな頼まれごとが増えてきました。料理専門学校の教育会議に呼ばれたり、地域活性の一環で地方にオープンする店の監修・コーディネートをしたり。映像のプロの方達と、日本の情景を世界に伝える映像プロジェクトにも協力しています。

もちろん、厨房に立つ時間を大事にしているのでたくさんのことはできませんが、スタッフの協力も得て社会のお役に立てることはやりたいと思っています。

日本料理の国際的な普及に関してはどうお考えになっていますか。

石川氏:
急ぐ必要はないことだと考えています。本物は長い年月のうちに自然にしっかり定着していくものだと思いますから。その前に、日本料理をやる若い人たちをしっかり育てていくのが私の役割だと思っています。うちにはほとんど毎日海外からのお客さまが数組来て下さいますから、まずはそのお客さまが満足してくだされば、「日本料理は素晴らしい」と自国で伝えてくださるでしょう。

また、長い目で見て、私たちの世代だけでなく、うちの店で育った人たちがいつか海外に出ていくようなことがあれば、そこを起点に本物の日本料理が広がっていくかもしれませんよね。

いろんなものをコントロールしようとすると思うようにいかないもの。今になって、すごくそれを感じます。いいものをそのままで出していく。私は私でできることを実行していくだけ。

食を通して、喜びの輪を広げていく。それが大きく、国を超えて、世代を超えて「日本料理って素敵だな」と広がっていけばいい。「起点は人」だということを忘れず、ゆっくり、じっくりとね。

掲載元: 一流料理人のプロフェッショナル論 Foodion(フージョン)
(聞き手:齋藤 理、文:泉 彩子、写真:刑部友康)

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